独立文芸評論

小説・評論から論文・漫画まで、手当たり次第かつ支離滅裂に論じます
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2009/09/22
23:25
ぼくのかんがえたすごいだいにじせかいたいせん 本そういち『夢幻の軍艦大和』(講談社)

例によって飲みすぎ、終電を逃してしまった。
そういうときには、いつも代々木の漫画喫茶で漫画を読みながら始発を待つことにしている。昨夜は『もやしもん』の続きが読みたかったのだが、酔っているせいか棚のどこにあるのかどうしても見つけられず、かわりに手に取ったのが本そういち『夢幻の軍艦大和』(講談社)であった。

僕はこの漫画について「書評」を書ける立場にはない。
というのも拒否反応を起こして2巻の半分で読むのをやめてしまったからだ。

本書は「第二次世界大戦タイムスリップ物」とでも呼ぶべき体裁をとっており、テレビ・ディレクターの息子である上原クルスが「おばけ」として大戦中の戦艦大和に現われることを軸に進んでいく。
漫画の「第二次世界大戦タイムスリップ物」といえば、近頃ではかわぐちかいじの『ジパング』が有名だが、本書と『ジパング』の大きな違いは、登場人物の人間性であろう。
『ジパング』では、突然、平成の日本から第二次世界大戦の世界へと投げ出されたイージス艦「みらい」の乗組員たちが、苦悩し、反目しあいながらも、日本が勝利してしまう世界でもなく、我々の知る史実でもない、あらたな日本像=「ジパング」へと踏み出していく。
かわぐちかいじの歴史観には僕はかならずしも共鳴しないが、その過程の描き方はやはり見事であるし、なんといっても、「日本が勝っちゃったらそれはそれでまずいよな」という一定の良識が働いている。

だが、『大和』には、そうした屈託が一切ない。
主人公のクルスは、「戦争は勝たなきゃダメだよ!」とあっさり言い放ち、自分の思い通りに進まない戦況を「んもう」といった調子で苛ただしく眺める。
その様は、線の細い、今風の絵柄と相まって、ゲームのようにしか戦争と接することのできない現代の日本人とモロにかぶるようだ。クルスにとりつかれる水兵の海馬もまるで今風のキャラ造形で、時代を超えた若者同士がまみえるという感覚はない。
この世界では、誰もが(特に若者が)クリーンで、フラットで、ニュートラルだ。
それは、たとえば『戦艦大和の最後』や『戦艦武蔵の最後』といった大和型戦艦に関するし体験記を呼んで育った僕には、どうしても「大和」の話として受け止められないほどなのだ。つまり僕は、それらを、地と肉と炎と狂気から成る阿鼻叫喚地獄の物語として読んだからである(シブヤン海での武蔵の描写なんてもうトラウマだ)。
凄絶な新兵いじめや、はらわたをはみださせてのたうちまわる水兵や、脚がちぎれて発狂する水兵こそが、僕にとって「大和」の物語であるし、それは65年前、僕よりもずっと若い少年たちが放り込まれた現実の世界であったのだ。
だが、この世界の「大和」にはどうしてもそういうものが感じられない。
なんだか、ただのオフィスのようだ。

また繰り返しになるが、主人公には、「では日本が勝っていたらどうなるのか?」という想像力は一切ない。彼にとって問題は軍事的勝敗の別でしかないのであって、ようするにまったくのプレイヤーでしかない。
あの無謀な戦争を始めさせた体制を、多くの若者を地獄に放り込んだ体制を、あのまま存続させてよいのか?
「大和」が勝利するというのは、勝敗とか「母親殺しのパラドックス」といったSF的な問題ではなく、僕たちの生きているこの世界の問題として何を意味するのか?
僕が、「大和」の描き方にこだわりたいのは、まさにこの理由からなのだ。
「大和」はSFメカではない。
歴史なのである。それも、僕らがよって立つ、この世界と連続につながっているところの。

もちろん、以上書いてきたことは、あくまでも「1巻と半分」を読んだ上での個人的な「感想」である。『夢幻の軍艦大和』は現在、すでに9巻を数えるシリーズであり、この後の展開まで見極めなければ「書評」は書けない。
が、その気力をぐったりと削いで行くような、一種の憂鬱さを、本書の「1巻と半分」は持っているのである。



2009/09/15
00:49
科学哲学者の怨念  冨田 恭彦『科学哲学者 柏木達彦の多忙な夏』

ひとことで言って、本書は、「怨念の書」である。
といっても、もちろんオカルティックな意味においてではない。

タイトルから明らかなように、本書は、科学哲学者である柏木氏のひと夏の物語である。作中から読み取れるところでは、柏木氏は大学の教員で、年齢はおそらく50代ではないかと思う。これは、作者である富田氏(57歳、京大教授)とほぼイコールであると考えてよいだろう。作中に登場する同僚や院生や駄目学生なども、ほぼ富田氏の周囲に実在する人物たちと考えてよさそうだ。
ただひとりの例外、紫苑嬢を除いては。

紫苑ちゃんは物理の学部生なのだが、なんと専門外の柏木先生の講義に興味を持って、わざわざ研究室まで訪ねて来てくれるという超奇特な女の子である。
その上、美人で頭がよくて柏木先生の研究を理解してくれて一緒にお酒も飲んでくれたりして、しまいにはなんだか柏木先生にちょっと甘酸っぱい感情まで抱いてくれてしまうという、描いているこっちが恥ずかしくなるような理想の女の子である。
言っちゃあ何だが、ありえないキャラである。
こんな子が実在するなら、是非とも僕の研究室にも訪ねてきてほしい。
だが、その確率は、引きこもり青年のところに岬ちゃんが訪ねてくるか、エントロピーが縮小するのとさして変わらないだろう。
そして、他のキャラ達がかぎりなくリアルであるだけに、この紫苑嬢の存在がめちゃくちゃに浮いているのである。

ところで、この設定は、今をときめく森博氏のお気に入りでもある。
今ではすっかりミステリ/ファンタジー作家として有名な同氏も、最近まで名古屋大学で教職にあり、その作品中では、明らかに自身をモデルにした助教授と女学生のカップルをよく登場させていた。
もちろん、大学教員と言えば、身の回りに若い娘をウヨウヨいるはずである。
まるでスリガオ海峡を突破せんとする戦艦山城と、これに群がる米魚雷艇のごとく。
しかし、ひとつ違うのは、娘たちは魚雷艇のようには、教授には群がってくれないということなのだ。

僕はかつて何をまかり間違った大学院に入ってしまったことがあり、今でも研究のまねごとのようなことをして辛うじて糊口をしのぐ生活をしている。アカデミシャンの知り合いも数多くいる。
その上で思うのだが、大体、こういう世界に居る人たちというのは、「俺ぐらい努力家で頭がよくて魅力的な人間はいない」と思っている。
たしかに、インチキな研究ばかりしているような僕とは違って、たとえば京大の教授になるような人というのは、地頭のよさはもちろん、すさまじい努力をし、専門外の教養も高く持ち、魅力的な人物であるのはたしかだ。
だが、彼らの自時意識とは裏腹に、そのほとんどはまずモテない(この点だけは、僕も一緒なのが遺憾である)。
彼らのそうした優秀さは、いわゆる「リア充」的なものをすべて切り捨て、リソースを集中することで成り立っているわ部分が大きいからであろう(もちろん、その両方を成立させてしまう超人クラスも少数はいたりするのがまた恐ろしいのだが)。
だが女の子にはモテたい。
こんなに努力家で頭のいい僕を認めてほしい。
にも関わらず、そこいらじゅうにうじゃうじゃ居る女の子たちは、彼ら秀才たちの叫びになど目もくれずにイケメンと手をつないで愉しそうにしている。

「柏木達彦の夏」は、富田氏がこうしたうっ屈を抱え続けた果てに生み出された、理想の夏だったのではあるまいか。
やはり本書は「怨念の書」なのである。
それにしても、僕の研究室にもなぁ・・・

2008/12/31
14:40
白井弓子『天顕祭』

第一回目となる今回は、白井弓子『天顕祭』(サンクチュアリパブリッシング)を取り上げようと思う。
この作品は2007年度の文化庁メディア芸術祭漫画部門を同人誌としては初めて受賞したという異色作で、本屋でも平積みになっているので目にされた方は多いのではないだろうか。

だが、本のオビから受ける印象を、読者はまっさきに裏切られる。
「50年に一度の秘祭」「ヤマタノオロチ」と来れば日本神話風ファンタジーを想像するだろうが、舞台は数百年後の未来なのだ。それも「汚い戦争」によって「フカシ」と呼ばれる汚染物質で汚染され、これを「浄化竹」で浄化しているという、まるで『風の谷のナウシカ』のような世界観である。
しかし『天顕祭』の日本が『ナウシカ』と異なっているのは、浄化がようやく最終段階に入りつつあり、また市民の生活も(やや江戸下町風の変貌を遂げているものの)おおむね戦前のレベルを回復しつつあるということだ。
そんな世界で足場屋(この世界の建築業ではかなり重要な職業らしい)の若頭を務める主人公・真中の元に、ひとりの少女・咲が職人を志願して転がり込んでくる。まじめによく働く咲はたちまち組の人気者になるが、たったひとつ、彼女には奇妙な点があった。
高いところを好み、地上を嫌がるのだった。
実は彼女は、50年に一度開かれる「天顕祭」でヤマタノオロチに捧げられるイケニエに選ばれていた・・・というだけなら、別にどうってことは無い話だ。
「へぇ~怖ぇな」
と鼻くそでもほじって読んでいられる。
ヤマタノオロチなんて存在するわけが無いし、それは数百年後であろうと大戦争のあとであろうと変わらないからだ。

ところが、だ。
話が進んでいくにつれ、ストーリィは圧倒的にリアルな怖さを帯び始めるのである。
イケニエになる少女は、背中にウロコの形の傷がつく。
儀式が近づくにつれて傷は全身に広がり、出血もひどくなってゆく。前半で咲の元気な様子を見ていただけに本当に痛々しい描写だ。
だが、真中が祭を司る神主から聞かされたところでは、儀式を怠ったイケニエはさらにひどい状態になって死ぬらしい。作中では写真の裏だけが写っていてはっきりしないが、おそらく全身がぼろぼろに傷つき、血まみれになって死ぬのだろう。
このあたりで筆者は、この作品がファンタジーでも恋愛ものでもないことに気づいた。
いや、「オロチの君」と「クシナダ姫」の愛とか、ヤマタノオロチとスサノオとかそういう要素はふんだんにもりこまれているのだけれど、そのあたりは実際に作品を手にとって読んでみてほしい。
それよりも筆者が想起したのは、この『天顕祭』の数日前に読んだ『朽ちていった命』(NHK「東海村臨界事故」取材班、新潮文庫)であった。あの東海村の事故で、まさに手元のバケツの中で「小さな太陽」を生んでしまい、その瞬間に浴びた大量の放射線によって80日間にわたって生きながら朽ちていった被害者の様子を克明に綴ったルポだ。
イケニエの運命は、それにそっくりだったのである。

こうしてただの伝奇物語であった筈の『天顕祭』の世界は、突如として今我々の目の前にある現実の問題として突きつけられることになる。
「天顕祭」が行われる地下深くの空間は、実は大戦中に掘られた兵器庫か核廃棄物の収容施設のようなものだった。「フカシ」とは放射性物質のことだろう。
そこですっぽりと頭から布を被った服装で降りていくイケニエ。
まさにそれは「核」を巡る筆者のステロタイプなイメージそのものだった。
そして物語の終わり近く、主人公・真中は気づくのだ。

「天顕祭」は「点検祭」なのではないか?

この地下深くに残されたやっかいなものを、定期的に点検しろという意味だったのではないか?
真中がそう看破した瞬間、筆者はなんともいえない悪寒のようなものを覚えた。
数百年程度では衰えもしない、地下深くの危険な放射性物質。
その本来の意味が忘れ去られ、それどころか世界の浄化は近いという楽観論が芽生えつつある地上の世界。だが地下深くでは、ヤマタノオロチのような得体の知れない怪物が首をもたげつつあったのだ。
これはまるっきり、現在のこの世界の話ではないか。
我々が生きているまさにこの現在の。
こうして、B5版の画面の中で展開する真中と咲の物語が、そのまま我々の運命に直結する。

ラストがどうなるかは、これまた読者の皆様に実際に読んでいただきたい。
さまざまな受け取り方が可能であろうからだ。
ただ筆者は決してハッピーエンドだったとは思っていない。
作者の白井自身が、自分の抉り出してしまった問題の大きさに戸惑い、どうにも扱いきれない不安を覚えながら一応のオチをつけた。
そんな風に見えるのである。


「フカシ」は今も、私たちの足元に眠っているのだ。
ほら、ドクン、とヤマタノオロチが身もだえした。


2008/12/31
14:02
ご挨拶

暮も押し迫ったこの時期にアレですが、ブログ「独立文芸評論」を開設してみました。
小説、評論、学術論文、漫画にいたるまで、管理人が読んだなかで「これは面白い」「恐ろしい」「いかがなものか」など強い印象を受けた書物をご紹介しようというブログであります。
というのも、「本を読んだ」と言い得るまでにある書物の内容を咀嚼するためには、筆者はどうしても「書く」という作業を必要とするのです。ならば折角だから、それをブログ形式にして多くの人々と共有・相互作用させてみたい、というのが第一の動機であります。
そしてまた筆者は大変に貧乏であります。
詳しくは明かせませんが、研究者の真似事のようなことをしているために、日本銀行券から大変に縁遠い生活をしております。そこで読書の傍らにアフィリエイトで生活の足しが作れはしまいか、というのが第二の動機で、早い話がアフィブログなわけですね。そういうわけですから、余程気になった本が見つかりましたら、リンクをクリックしてくださると嬉しいです。

というように、徹頭徹尾利己的動機から開設されたこのブログでありますが、あまり肩肘張らずに気長にやっていきたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。